2011年5月2日

撮りながら考える不鮮明な写真の意味

オランダカイウ(和蘭海芋) 京都市北区平野宮北町 Nikon D80 + Zoneplate

Calla Tachihara Fielstand45II Fujinon150mmF5.6 Neopan100Acros (写真はいずれもクリックすると拡大表示されます)

もし人間の目が突然超進化して、顕微鏡のような視力を持ったらどうなるだろう。事物が余りにも仔細に見え、きっと卒倒するに違いない。時に写真は人間の視力では追いつかないものまで描写することがある。写真術の黎明期、写真が持つこの機能を多くの画家たちは「ディティールの表現は愚かで表面的」と決め付けた。「写真は芸術も何も理解しておらず、実物そっくりの絵を好む大衆の虚栄心を満足させる手段に過ぎなかった(ジゼル・フロイント『写真と社会』)」といった背景から、やがてソフトフォーカスを主体としたピクトリアリズムが一世風靡し、写真は「芸術」の道を歩み始めた。それは19世紀における反自然主義、ディティールへ嫌悪に連動したものであった。前述「ゾーンプレート写真論考のための覚え書き」は、ゾーンプレートやピンホール、あるいはロモやホルガなど所謂トイカメラが創り出す不鮮明な作品が、同時代的絵画主義写真になり得るか否か、と言う内なる伏線を土台にしたものだった。しかしタイトル通り覚え書きに終わってしまっている。いや実は今書いているこの一文も覚え書きから脱することができないようだ。一昨年5月に私はゾーンプレート写真による個展を開催したが、以来このシステムから遠ざかっていた。ところが思うことがあり、今年になって再開した。同じ被写体を、普通のレンズカメラで撮ったり、ゾーンプレートで撮ったり、試行錯誤の連続である。走りながら考えるという表現があるが、撮りながら考えてみようというわけだ。結論はまだまだ先になりそうだ。

0 件のコメント: