2012年5月4日

泊原発燃料棒搬入阻止闘争クライマックスシーンを記録した幻の傑作写真

WAKE UP   parents usually think that they are protecting their kids, they dress them well when its cold, and they buckle them in car seats, but what they really don’t know is that nukes harming their kids, in other ways. (Reham Alsindi)

北海道泊原発3号機があす5月5日定期検査のため停止する。これによって泊原発全3基を含む国内の商業用原発全50基が停止する。ゼロからの原発再稼働は世論の反発を受けやすい空気になると見た政府は、それを避けるため福井県の大飯原発の再稼働を急いだが、5日まで実施できないことが判明した。ところで私は今朝から雑誌「アサヒグラフ」のバックナンバーを探していたのだが、該当号が行方不明で見つからない。1988年7月、泊原発燃料棒搬入阻止闘争を取材したもので、私にとっては忸怩たる結果になったものである。詳細は省くが、北海道電力の核燃料棒の搬入シーンを撮影するため、私は阻止闘争の市民グループのゴムボートに乗った。漁船をチャーターするという手もあったが、間近から撮るのが最善の方法だと思ったからだ。ボートは早朝原発構内に入り、機動隊ともみ合いになった。阻止行動の人たちは次々拘束されたが、私は捕まらずボートを降りて岸壁に立った。野球帽をかぶった公安刑事の質問を受けただけで、構内から外に車で送り出された。この件は道警本部を通じて地元の記者クラブに伝えられた。そして私は朝日新聞北海道支社に呼び付けられ、報道部長から強い叱責を受けた。

曰く「反対派のボートからの取材は公正に欠ける」というものだったと記憶している。一市民である私が何故市民のボートに乗るのが公正に欠けるのか、間近から撮ろうとしたのが何故駄目なのか、と抗弁したかったがやめた。このことに関してはもうひとつの背景があったからだ。地元メディアが取材協定を結んだのだが、その時の幹事社が朝日新聞だったのである。私は雑誌部門のスタッフだったので、当然ながらクラブに属してなかったし、取材協定に従う必要もなかったのである。しかし新聞も雑誌も他社からみれば同じ会社で協定違反じゃないかと揶揄するに違いないし、幹事社としては「まずいことをしてくれた」ということだったのだろう。そんなこともあり、東京に戻った私に対する周囲の視線は冷たかった。そしてなにより悔しかったのは、燃料棒搬入を阻止しようとする人たちと、機動隊員とのもみ合いシーンを撮影した写真が掲載されなくなったしまったことである。阻止行動の人たちが警察に拘束されず、無事ボートが浜辺に戻っていたなら、地元記者クラブに伝わらず、何のお咎めもなくきっと掲載されたに違いない。燃料棒搬入阻止闘争のクライマックスシーンを記録した幻の傑作写真であったと今でも思っている。

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