2017年11月17日

受動喫煙:美しかったニッポンが薄汚い国になりつつある


今朝のテレ朝ニュース電子版によると、厚生労働省は、30平方メートル以下の飲食店に限って喫煙を認める方針だったが、自民党の反発を受けて方針を転換し、店舗面積が150平方メートル以下の、より大型の飲食店でも喫煙を認める新たな案の検討に入ったそうだ。これを認めると、東京都内ならば9割近くの飲食店で喫煙が可能になる見込みだという。東京都議会が10月5日に「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」を賛成多数で可決成立させたばかりだが、30平方メートル以下の飲食店なら喫煙を認めるというものだった。これでも受動喫煙は防ぎえないと思っていたが、さらに店の許可面積を広げるというから呆れる。毎日新聞11月16日電子版によると、英国の「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」が受動喫煙に対する日本の対策は「最低ランク」と警鐘を鳴らしたという。世界55カ国が公共の場での屋内全面禁煙を法制化して15億人の健康が守られているのに対し、日本は飲食店や職場など多くの場所で喫煙が許されており「規制レベルは最低ランクの位置付け」と紹介。国民の大多数を占める非喫煙者の声が少数の喫煙者に負けているのが現状だとし、煙草、外食、娯楽産業の圧力が強く、財務省がJTの33%の株を保有している事実もロビー活動を容易にしている可能性があると指摘したのである。かつては美しかったニッポンが後退、薄汚い国になりつつある。

2017年11月14日

フライドチキンではないケンタッキー・カーネルズ

The Kentucky Colonels at the Ash Grove, Los Angeles, California, 1966

米国ケンタッキー州から何を連想するだろうか。首府ルイヴィルのケンタッキーダービーを思い浮かべる人がいるかもしれない。しかし何と言っても日本人に馴染みがあるのはKFC(ケンタッキーフライドチキン)ではないだろうか。その象徴であったカーネル・サンダースの像がずいぶん前に大阪・道頓堀川から救い出されて話題になったことがある。KFCのウェブサイトによると、この像の原型はカナダのあるフランチャイズ店舗で作られたもので、イベントで使用された後は倉庫で眠ったままになっていたという。日本KFCの幹部がその立像をみつけて、日本に持ち帰り、店頭に置かれた。だから日本だけのものだという。私は1970年代、ケンタッキーの本店前を通り過ぎたことがあるが、像があったか憶えていない。日本にKFCができた1970年だそうだが、確かこの年、神戸のトアロードにできたばかりの店を取材した。連れて行ってくれたのは、新しがりやの女子高校生だったが、これまた像があったかどうか記憶にない。カーネルは大佐を意味するが、一種の名誉称号で、州に貢献した人に贈られるようだ。ケンタッキー州と言えば、私ならブルーグラス音楽がまず頭に浮かぶ。州のニックネームがブルーグラスで、ビル・モンローが率いたバンド名がブルーグラス・ボーイズというのがその謂われである。同じケンタッキー・カーネルでも、こちらは「S」が付いた複数形になっている。フランス系カナダ人のエリック・ホワイト・シニアの3人の息子、ローランド、エリック、クラレンスと娘のジョアンが1954年に西海岸のロサンジェルスで結成した "Three Little Country Boys" がケンタッキー・カーネルズのルーツだ。

Shikata Records SRCD-1002 (1999)
ローランドがビル・モンローに傾倒、フラットマンドリンを手にしたことからブルーグラスバンドに変身、1957年には地元局でレギュラー番組を持つようになる。1963年にファーストアルバムを出すが、このときからケンタッキー・カーネルズを名乗るようになった。上記ケンタッキー州の名誉称号を意識したものであろう。徴兵で抜けていたローランドが戻り、フィドラーのボビー・スローンが加わり、グループは全米ツアー敢行する。1964年にはUCLAとニューポートのフォークフェスティバルに足跡を残している。その後、天才フィドラーであったスコッティ・ストーンマンを迎えたが、1965年に解散する。ケンタッキー・カーネルズが今日でも強い支持を得ているのは、なんと言ってもクラレンス・ホワイトの技巧を凝らした、華麗なギターテクニックの魅力によるものだろう。ジョージ・シャフラーやドン・レノの奏法を基に、彼独自の発想が加わった革命的奏法である。フラットピックによる早弾きは、古くはアルトン・デルモア、その影響を受けたドク・ワトソン、そしてトニー・ライスが有名だが、いずれも演奏スタイルは微妙に違う。クラレンスは、1968年にザ・バーズに参加、フォークロックの礎を築いたひとりだが、 1973年に交通事故でこの世を去った。弱冠29歳だった。左のアルバムは1965年録音の音源を、1999年に Shikata Records の故・四方敬士氏の尽力でCD化されたもので、パーソネルはクラレンス・ホワイト(ギター)ローランド・ホワイト(マンドリン)ビリー・レイ(バンジョー)ロジャー・ブッシュ(ベース)の4人。スコッティ・ストーンマンとの共演など、何枚かのCDが出ているが、録音状態も良く、彼らのベストアルバムだと思う。

2017年11月12日

安倍政権とジャーナリズムの危機

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日 時:2017年12月2日(土)18:30~
会 場:クレオ西ホール(大阪市此花区西九条6-1-20)
講 演:望月衣塑子(東京新聞記者)
演 奏:長野たかし(元「五つの赤い風船」)&森川あやこ
報 告:木村真(森友問題を考える会)
主 催:とめよう改憲!おおさかネットワーク

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2017年11月11日

気分は紅の豚

サボイアS.21試作戦闘飛行艇を操ってアドリア海を飛ぶ紅の豚

イタリア版ポスター(クリックで拡大)
先々月末「ファシストになるより豚のほうがマシさ」と題して、ブログやソーシャルメディアなどのプロフィール用画像を、宮崎駿監督アニメ作品「紅の豚」に切り替えたと報告した。これまでネット上のユーザーネームは実名を、漢字あるいはローマ字で表記してきたが、これはバーチャルとリアル社会を繋げようという趣旨の Facebook の影響だと言えそうだ。しかしその前は、実名での活動は住所を特定されるなどのリスクが高く、ストーカー被害や嫌がらせなどから自身、または身内の危険回避、自己防衛の意味でハンドルを使うのが常だった。過去に経験したミートアップでは、実名よりハンドルで呼び合ったことが多かった。というわけでついでにブログやソーシャルメディアなどのハンドルも思い切って Porco Rosso(紅の豚)に変更した。ただし実名やメールアドレスを知りたい人には、その表記がある自己紹介ページに辿れるようになっている。実名はいわば親から与えられたものだが、ハンドルは自分が選ぶという主体性がある。紅の豚の援用はいささか安易であることは否めないが、何となく紅の豚の気分になったのが面白い。宮崎監督は今年1月に76歳になったが、イタリアのミカエラ・オンガレッチさんの「76になった宮崎駿、紅の豚との最高の願い」といった記事も、何だか自分が褒められてるようで、楽しく読むことができた。他の宮崎監督作品とやや異なり、いわば男のロマンが通奏低音として全篇を流れているが、女性であるにも関わらず、その点も深い洞察を加えている。そして何よりも物語の舞台がアドリア海であることが、身近でお気に入りのようだ。女性と言えば、監督を両脇で支える最も重要な存在が作画監督と美術監督なのだが、そこを女性で固め、さらに録音演出でも女性を抜擢、重要なポジションをすべて女性で占めたそうだ。つまり女性が作った映画であり、当時のアニメーション界全体を見渡しても画期的なことだったという。ところで航空機に関しては全く不案内だが、紅の豚の操った機体は「サボイアS.21試作戦闘飛行艇」で、この作品のために練り上げられた架空のものだという。この機体は実機のサボイアS.21ではなく、宮崎監督がが小学生の時に見た写真がモデルで、その飛行艇はマッキ M.33とされているそうだ。いわば個人的な趣味として作られたようだが、その辺りに興味を抱き、制作秘話を期待して『ジブリの教科書7紅の豚』を注文してしまった。

2017年11月8日

真珠湾奇襲攻撃秘話ニイハウ島の悲劇

真珠湾の航空取材を終えホノルル空港に戻ったイヴランドさんと私(1976年12月)

ちょうど75年前の1941年12月7日、日本時間12月8日未明、日本海軍はハワイ州オアフ島の真珠湾を航空機および潜航艇で奇襲攻撃をした。写真は1976年の12月中旬、ホノルル空港で撮影したもので、私が穿いてるベルボトムのジーンズが時代を感じさせる。フィルムスキャンしたもので、好天下でコントラストが高いのが難点だけど、流石コダクローム、40年を経ても変褪色の兆しがゼロである。横にいるのはパイロットのイヴランドさん。この日は旧日本軍の戦闘機の飛行コースに沿って真珠湾に侵入、湾内を何回か旋回し撃沈した戦艦アリゾナの記念館を撮影した。この地域にはアメリカ海軍太平洋艦隊の司令部や太平洋空軍の基地などになっているので、しばらくすると管制塔から無線で「退去せよ!」と怒鳴られ、すぐそばのホノルル国際空港に着陸、ほっとしたところを記念撮影したものだ。イヴランドさんと一緒にハワイの島々を飛び回ったが、彼は飛行機操縦教官の資格があり、風が穏やかな洋上では時々操縦桿を握らせて貰った。だから私は4~5時間の飛行教程を履修したことになっているのである。真珠湾奇襲攻撃を受けた米国は日本に宣戦布告、これがハワイに住む日系人に複雑な影を落としたことは言うまでもない。ところでニイハウ島事件をご存知だろうか。

西開地重徳一飛曹
焼却後の西開地飛曹搭乗のゼロ戦
真珠湾第二次攻撃のため、戦艦「飛龍」を飛び立った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)がエンジンの故障で不時着、奇怪な展開を見せた事件である。この島には軍事施設がなく、万が一のために不時着地として日本軍が指定してあったものだ。パイロットは西開地重徳一飛曹(海軍一等飛行兵曹)、軽傷だったようだが住民が手厚く看護したという。ところがその住民の一人が機内から地図と拳銃を盗み出した。地図は帝国海軍の軍人にとってはいわば機密書類、住民との間に緊張感が漂った。間に立ったのがカウアイ島から農場の管理人として働きに来ていた日系二世の原田義雄夫妻だった。最終的には西開地一飛曹は住民との抗争によって殺されるのだが、これによって原田さんも自害する。アメリカ人でありながら日本軍に加担したというジレンマに陥ってしまったからだ。ニイハウ島はロビンソン一家が私有する小島で、先住ハワイアンの生活様式を継承している。許可なしには誰も上陸できなく、私も申請したが無理だった。カウアイ島でヘリコプターをチャーター、上空から島の様子を窺った。礼拝を終えたと思われる住民が教会から出てきたところを見たくらいで、パイロットが低空飛行を嫌がったこともあり、その生活実態を撮影することはついにできなかった。現在でも島の一部を散策できるツアーもあり、上陸については容易であるが、島民への接触は招待された者以外は認められていないという。

欧州戦線で名を馳せた第442連隊戦闘団の日系人兵士たち
移民というのはひとつのプロセスを辿るようだ。まず農業、漁業などの労働に従事する。次に教育を受けた子弟が、教員をはじめ公務員になる。無論企業にも務める人もあれば、起業する人も登場する。スポーツ選手が現れ、政治家も誕生する。音楽や絵画などの芸術家が生まれるが、最後に現れるのはその国の言葉を使う文学者だという。当時、詩で受賞したという日系三世の女子高校生のことを新聞で知り訪ねたことがある。顔かたちが日本そのものなのに、会うと英語しか喋れず、奇妙な感じを抱いたものである。どうして二世たちは三世に日本語教育をしなかったのか。大戦中ハワイから欧州戦線に送られた日系米兵の「第100歩兵大隊」「第442連隊戦闘団」はドイツ軍と果敢に戦い、米軍内では稀にみる大きな戦績を残した。ところが皮肉なもので、戦場で活躍したがうえに「やはり日本人は怖い」と逆の評価も囁かれてしまったのである。すべての日系人がそのようにしたか不明だが、このような苦い経験から、より「アメリカ人」になろうと子弟に日本語を教えなくなったという。これは例えば華僑の世界とはずいぶん違う。ニイハウ島事件から逸れたが、ハワイに住む日系人の複雑な深層心理を一枚の写真から思い出した次第である。

2017年11月6日

ジョー・ヒル:天国のパイ

群衆に囲まれて墓地に向かうジョー・ヒルの棺(シカゴ1915年11月25日)

アメリカの大恐慌は人々の生活を苦しめたばかりではなく、結果的にドイツやイタリア、日本などのファシズムを生み、第2次世界大戦への引き金となった。アメリカはつくずく記録魔の国だと思う。魔と書いたが、良い意味である。手元に絶版となったソングブックが一冊ある。"Hard Hitting Songs For Hard-Hit People" と題されたこの書籍は、1967年にニューヨークのオーク・パブリケーションズから出版されたもので、編纂は民謡蒐集研究家のアラン・ロマックス、フォークシンガーのウディ・ガスリーとピート・シーガーで、小説『怒りの葡萄』の作者ジョン・スタインベックが序文を寄せている。私が所有しているのはハードカバーだが、2012年にペーパーバックス復刻版が出たので、現在は入手可能である。それはともかくこのソングブックには大恐慌が産み落とした歌の数々が収録されていて、庶民の視点による貴重な記録になっている。この中から一曲紹介しよう。これはジョー・ヒル(1879–1915)が作った "Pie in the Sky"(天国のパイ)という歌である。
悼んではならない 団結せよ!
長髪の説教師どもが毎晩やってくる
何が悪いか何が良いかやつらは語る
でも何か食べるものはと訊いてごらん
やつらは甘い声でこう答えるだろう

そのうちに食べられるようになるさ
天の上の栄光ある国で
働き祈りなさい干し草で暮らしなさい
死んだら天国でパイが手に入るだろう
ジョー・ヒルの生涯に関しては、1971年にアメリカとスウェーデン合作の伝記映画が公開されている。またジョー・グレイザー、フィル・オークスやジョーン・バエズなどがジョー・ヒルのことを歌っている。1879年スウェーデン生まれだが、1902年に移民としてアメリカにやってきた。無賃乗車で列車の旅をした人々をホーボーと呼ぶが、彼もその集団に加わったひとりであった。1905年にシカゴにおいて結成された Industrial Workers of the World(世界産業労働者組合)の運動に加わったが、最後はフレームアップで処刑されてしまう。集会条例によって街頭の演説が禁じられたいたため、賛美歌のメロディを使った替え歌で運動を展開したことで彼は知られている。奇しくもこれは、演説がだめなら歌で、ということで生まれた明治大正時代の添田唖蝉坊らの「演歌」と酷似しているのが興味深い。演歌はやがて風化して「艶歌」に化けてしまったが、アメリカではフォークソングとして育ち、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、そしてボブ・ディランへと歌い継がれていったのである。このソングブックにはFSA(農業安定局)プロジェクトが記録した、大恐慌時代の写真が多数掲載されていることを特筆しておきたい。ドロシア・ラングやウォーカー・エバンスなどが撮影したもので、現代ドキュメンタリー写真の礎(いしずえ)になった。大恐慌と写真というテーマで機会があれば書いてみたい。

YouTube  Pie in the Sky - Pete Seeger 1965    YouTube  The Ballad of Joe Hill - Phil Ochs

2017年11月5日

イスラームの科学者イブン・アル=ハイサムの偉大


イブン・アル=ハイサム 最初の科学者
イスラームいう言葉に接すると日本人は何を連想するだろうか。左手に聖典クルアーン、右手に剣という比喩に代表される宗教的攻撃性だろうか。中東に今なおくすぶる戦火だろうか。それとも産油国の為政者の豪奢な暮らしぶりだろうか。歴史的にはヨーロッパを震撼とさせた、オスマン帝国の覇権主義だろうか。いずれにしても、その結束力は時空を超えて、アジアからアフリカに至るまで、繋がりを持っている。多くの人々がプラスのイメージを持たず、負のそれを抱いてるのではと想像する。しかし工業立国日本は石油なしには生き延びることができない。その観点のみから外交政策が行われ、その文化に対する認識は立ち遅れてるような気がしてならない。だから10世紀において、イスラーム圏の科学がヨーロッパより遥かに進んでいたという史実が、日本人の認識の中に欠落しているかもしれないのである。サブタイトルを「最初の科学者」とした本書は、史上最も偉大な科学者の一人であるイブン・アル=ハイサム(アルハゼン 965-1038)の伝記および評論である。ペルシャ(現イラン)のバスラで生まれ、バグダードで科学を学んだ。アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、そしてプトレマイオスの業績を研究考察した。そして目から出た光が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るというといった、彼らの視覚論を批判する。太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出し、現在から見てもかなり正確な眼球の構造を記している。本書は児童向け図書で、日本の子どもたちのために邦訳が待たれる。

イラク中央銀行の10000ディナール紙幣(2003年)
実験というメソッド使用することで科学へのアプローチを開発したのであるが、光学の分野での功績は大きい。ロジャー・ベーコン(1214-1294)からピエール・ド・フェルマー(1608-1665)までの中世ヨーロッパの科学者と数学者、そして天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に影響を及ぼしたのである。彼はカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いたのだが、右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いたのである。このことからは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。像の左右の入れ替わりに触れているが、像が倒立することには言及していない。エジプトのファーティマ朝の第6代カリフ・ハーキムによってカイロに招かれ、ナイル川の洪水を治める研究をするよう指示された。しかしそれが困難と知った彼は独裁者の逆鱗を買ったが、気が触れたと偽る。結局カリフが没するまで幽閉されてしまうが、最終的に釈放されバグダッドに戻る。死ぬまでに科学に関するもう90冊の本を書いたと言われる。幽閉中に書かれた『光学宝典』著書は1572年に出版されたが、上記ケプラーを筆頭に、ルネ・デカルト(1596-1650)、クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)、アイザック・ニュートン(1642-1727)などが更に光学を発展させて行った。少なくとも10~11世紀において、イスラーム圏は科学の先進を走っていたのである。

YouTube  Ibn Al-Haytham (Alhazen) - Optics: The True Nature of Light | by Jim Al-Khalili (EN)

2017年11月4日

東寺五重塔にどうして大日如来像がないのだろう?

阿弥陀如来坐像

五重塔はストゥーパ、すなわち釈迦の遺骨を安置する舎利塔である。東寺(京都市南区九条町)の五重塔は弘法大師が天長3(826)年に創建着手したが、しばしば災火を受けて焼失、現在の塔は寛永2(1644)年に徳川家光に寄進によって竣工したものだそうだ。東側から初層の内陣に入ると、心柱を背にした須弥壇に安置された阿閦(あしゅく)如来像が目に飛び込んで来る。そして反時計廻りに不空成就(ふくうじょうじゅ)、阿弥陀(あみだ)、宝生(ほうしょう)如来と続く。いずれも金色だが、中心に置くべき真言密教の主導、大日如来の姿がない。東寺塔頭宝菩提院住職だった三浦俊良著『東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図』によると、空海は心柱そのものを大日如来と位置付けたそうである。大日如来は宇宙の真理を表わす仏である。この仏を心柱とみなし、その上で金剛界の密教世界を作り上げていったという。

2017年11月3日

ピンホール現象に関する「アリストテレスの難題」を解いてみよう

Annular Eclipse Shadows on May 20 in 2012 by ©Justin Soffer

木漏れ日の針孔現象
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ピンホールカメラの原理について訊かれると、私は「光の直進性を利用したもの」と答えることにしている。これで何となく納得してしまうらしく、例えば「どうして光は直進するのか」という突っ込みを受けたことがない。中国の経書によれば、紀元前5世紀に光の直進性が知られていた。墨子や荘子らは影について語っている。衝立にピンホールを開けて倒立した像を作ることを最初に記述したのは墨子である。墨子は物体が光をあらゆる方向に反射することも、物体の頂点がから発せられた光線が針孔を通過すると像を作りだすことを知っていたし、針孔を通過した光だけが像を結ぶことに気づいていた。ピンホール現象が人の手によらず発生するのを最初に観察したのは紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者アリストテレスだと言われている。日蝕のとき木陰になった地面に三日月形の像が浮き上がってるのを見て、葉と葉の小さな隙間がそれを作りだしていることに気づいた。像が倒立することに対しては、アリストテレスは頭を悩ますことはなかったようだ。太陽からくる円錐状の光を想定して単純に説明した。すなわち円錐の頂点が孔の位置にあり、それが反対側にもうひとつの円錐を作りだし、これが太陽の像を結ぶと考えた。彼が関心を抱いたのは、孔の形がなんであれ、太陽の像が日蝕時には必ず三日月形になることだ。これは「アリストテレスの難題」として残り、16世紀まで解決されることがなかったという。

光の直進性を証明する実験装置
10世紀、アラビアのアルハゼン(イブン・アル・ハイサム)がカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いた。彼は右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いた。このことからアルハゼンは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。形のまちまちな孔が、同じ太陽の円形の像、あるいは日蝕時に三日月形の像を結ぶのはなぜか? この「アリストテレスの難題」を16世紀になって解いたのが、ギリシャのフランチェスコ・マウロリコだったという。マウロリコはヨハネス・ケプラーの先駆者とも言える数学者であった。眼球が作る像とレンズのない小さな隙間が作る像、その両方に関する理論に没頭した、と歴史書は説明している。前置きが長過ぎたようだ。ここまで読んでいただいたあなたは、マウロリコがどのように「アリストテレスの難題」を説明したか知りたくなりませんか? 実は私がそうなのである。ところが、彼が解いたということが分かったものの、どのように説明したかは見つからないのである。私はピンホール、あるいはカメラオブスクラ関係の書籍をそれなりに持っている。しかしその中からは答えが出ずじまいだ。もしやと思い、インターネットで検索してみたが、やはり見つからなかった。仕方ない、それではということで、自分で考えることにした。あなただったらどう説明しますか?

2017年10月31日

第五福竜丸建造70年記念特別展

この船を描こう 森の福竜丸 男鹿和雄と子どもたちの絵

会 期:2017年11月3日(祝・金)~2018年3月25日(日)9:30~16:00
月曜休館ただし祝日は開館・火曜振替休館・12月28日~1月3日休館
会 場:第五福竜丸展示館(東京都江東区夢の島公園)03-3521-8494
詳 細:http://www.d5f.org/news/80.html

ウェブサイトより:第五福竜丸70年・古稀を記念して、スタジオジブリ作品を多く手がけた森と樹の画家、男鹿和雄さんが第五福竜丸の絵を描いてくださいました。「海の第五福竜丸」「森の第五福竜丸」の2点の作品と、「焼津港」「ビン玉」「六分儀」の3点が展示館に贈られました。大海原を勇躍赤道にむかい航海する福竜丸に、閃光と爆発音、巨大なキノコ雲の下で灰は降り落ちました。しかし、航海はつづきます。建造70年にあたり「この船を知ろう」「この船をつくろう」につづき、「この船を描こう」では男鹿和雄作品と全国から寄せられた60点の子どもたちの絵を展示します。

2017年10月29日

小池百合子希望の党代表の危険


昨年8月、私は「東京都民はトンデモナイ女性を知事にしてしまった」という一文を寄せた。PHP研究所の月刊誌『VOICE』2003年3月号での鼎談を、自らのウェブサイトで「日本有事3つのシナリオ」と題して掲載している点を突いたものだ。以下のような発言だったが、選挙対策のためかこの下りは削除されている。
軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうるのですが、それを明言した国会議員は、西村真吾氏だけです。わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで安部晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった。
これは小池百合子希望の党代表の脳裡に、通奏低音として流れている政治信条で、安倍晋三首相と共通認識だと思われる。だから先の衆院選において小池氏が「安倍政治を終焉させること」をスローガンに掲げたことに疑問を持った。つまり「反安倍大連合」なるものは、実は「自公補完勢力創設」であり、民進党の前原誠司氏が、希望の党への合流を進めた真意に疑問を持ったものである。希望の党が安全保障関連法肯定、憲法改定推進を「踏み絵」にしたわけで、だから小池氏が思わずリベラルを「排除」すると口を滑らし、墓穴を掘ったのも不思議ではない。安倍一強政治に多くの国民が反発を感じている。国政に躍り出た小池氏は「新たな選択肢」として当初は大きな旋風を巻き起こすかのように見えた。しかし「排除」という失言ならぬ本音を露呈してしまったのである。安倍晋三首相も危険だが、さらなる危険思想を持っているのが小池百合子希望の党代表である。

2017年10月26日

岡本神草の時代展案内

しんさうのぬりゑ

日 時:2017年11月1日(水)~12月10日(日)9:30分~17:00(金・土曜は20:00まで)
休 館:毎週月曜日
会 場:京都国立近代美術館(京都市左京区岡崎円勝寺町)075-761-4111

京都市立絵画専門学校の卒業制作を、厳選で知られている第1回国画創作協会展に入選させ、新興美人画作家として注目された岡本神草(1894-1933)。昭和に入ってからは、かつてのように官能性を前面に押し出すのではなく、そこはかとなく漂わせるような作風に移り、38歳の若さで亡くなりました。画家にとって初の大規模回顧展となる本展は、数少ない本画を可能な限り集め、素描、下図、資料類100点ほどを加えて画業を紹介するとともに、甲斐庄楠音など同時代に競い合った作家達の作品も展示し、神草芸術の全貌だけでなく、時代性と特異性を知ることのできる展覧会です。

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2017年10月24日

ダイアン・アーバス自撮りヌード異聞

Diane Arbus (1923-1971) Self-Portrait, Pregnant, N.Y.C., 1945

 Diane & Allan Arbus (1950)
この写真をソーシャルメディア Facebook に投稿したところ、削除され、おまけに主な機能の利用停止処分を食らってしまった。理由は「Facebook のポリシーに違反するコンテンツ」ということらしく、33時間、投稿は無論、いいね!ボタンも押せなくなってしまったのである。ダイアン・アーバスの意外な側面を知る上で貴重な写真と思うのだが、要するにどんな内容であれ、ヌード写真はとにかく駄目ということらしい。というわけで、ここに紹介することにした。ダイアンのセルフヌードは、私が知ってる限りでは1944年と、1945年のこの写真が流布されている。1941年、18歳のダイアンは幼な馴染のアラン・アーバスと結婚、1945年に長女ドーンを出産した。つまりこれは妊娠中の写真で、陸軍信号隊の写真家として従軍、インドに駐屯していた夫に送ったものだという。ダイアンというと二眼レフを連想しがちだが、これは大判のデアドルフである。彼女はまだ写真家ではなかったが、若い夫婦がファッションや広告写真の事業を始めることを期待、ニューヨークでデパートを経営していたダイアンの父親が購入したものである。白いブリーフをつけただけのダイアンが、ベッドルームの鏡に向かってポーズをとっている。妙に艶めかしく、私生活を覗き見した気分になるのは私だけだろうか。明らかなプライベート写真で、アランに妊娠を知らせるために撮った一枚なのである。1959年に彼らは別居、1969年に離婚したが、二人の娘がいたため、アランは日曜の朝食にやってきて、ダイアンのフィルムの現像を続けたようである。1956年にダイアンは商業写真から手を引き、35ミリのニコンを使うようになった。後にローライやマミヤの二眼レフに持ち替え、性倒錯者、畸形、身体障碍者などの所謂「フリークス」を撮り始めたのはご存知の通りである。その中にはヌーディスト・キャンプに飛び込んで撮影したものなど、いくつかのヌード写真が含まれるが、それは彼女の蒐集癖の産物であり、若き日のセルフポートレートとは隔たりがある。そのプライベート写真がどのような経緯で公表されたのか、寡聞にして私は知らない。

2017年10月21日

映画『パーフェクト・ワールド』とハロウィン


A Perfect World (1993)
ハロウィンは古代ケルト人の祭が起源で、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的行事だったという。本来キリスト教とは関係ないが、11月1日に行われるキリスト教の万聖節「All Hallows」の前夜祭として紐付いたようである。日本でも南瓜のカービングや仮装行列が行われるようになったが、クリスマスと同様、宗教行事とは程遠い。ハロウィンというと私は昔観たクリント・イーストウッド監督作品の映画『パーフェクト・ワールド』(1993年)を思い出す。ケビン・コスナー演ずる脱獄囚ブッチ・ヘインズが、逃走途中に民家へ押し入り、8歳の少年フィリップ・ペリーを人質にアラスカに向けて逃亡する物語である。途中、フィリップは雑貨店でハロウィンの仮装用お面などに目を輝かす。エホバの証人の信者である彼の家庭では、母親が宗教に厳しく、キリスト教の友だちが開くパーティにも参加できず、ハロウィンの仮装も許されなかった。米国では近くの家々を訪れ「Trick or treat(お菓子をくれなきゃいたずらするぞ)」と唱えてお菓子をもらったりするそうだ。それがフィリップにとって羨ましくてしょうがなかったのである。クリント・イーストウッド演ずる刑事レッド・ガーネットはブッチを追い詰め、人質を解放するように求める。それに対しブッチは「母親がフィリップをハロウィンに行かせろ」という降伏条件を出す。この下りで思わず涙腺が緩んだことを憶えている。そし現場に到着したフィリップの母親がその要求を受け入れ、ブッチはフィリップを解放したのだった。下記リンク先で雑貨店のシーンを観ることができる。

Movie Film ブッチに連れられて立ち寄った雑貨店でフィリップはハロウィンのお面を手に入れた

2017年10月18日

衆議院選挙は消去法で一票

立憲民主党のロゴ

もし「コンサバティブかリベラルか?」と訊かれたら、迷わず後者と答えるだろう。しかし支持政党がない無党派層で、投票はおおむね消去法で決めている。もうこれ以上の右傾化、ファシズムの台頭を許してはダメだ、という観点からの消去法である。私の選挙区の候補者は自民、希望、共産党の三人で、選択肢がない。自民、希望の党は「排除」せざるを得ないからだ。日本共産党の英語名は Japanese Communist Party で、共産主義者でない私はその名に違和感を覚える。若いころ下部組織である民青(日本民主青年同盟)と不快な確執経験をしたので長い間敬遠してきたが、最近はその気持ちがかなり和らいで、選挙状況によっては一票を投ずるようになった。ところで比例区だが、希望の党の失墜で浮上した立憲民主党がまず頭に浮かぶ。ツイッターやフェイスブックなど、ソーシャルメディアへの対応も好感が持てるし、オフィシャルサイトもなかなスマートである。僅か一週間で制作したというロゴもよくできていて感心する。広報戦略に長けたスタッフに恵まれていると言えそうだ。しかしながら気になることがないわけではない。参議員民進党の一部に再結集の動きがあることだ。民進党の中には世襲の自民党から出られなかった議員もいる、呉越同舟政党であることを忘れてはならない。選挙後に万が一、立憲民主党が民進党に吸収されたらまさに元の木阿弥、それこそ魅力のない野党第1党に後戻りしてしまう。これだけはちょっと勘弁して欲しいが、全く可能性がないわけではない。というわけで社会民主党とどちらかという悩ましい選択だが、投票日ぎりぎりまで判断を伸ばそうと思っている。

2017年10月15日

野生動物写真の先駆者カートン兄弟

海鳥の巣を撮るため崖下に降りるチェリー・カートン(シェトランド諸島)

ウタツグミの卵(クリックで拡大)
19世紀末から20世紀にかけて活動した英国のリチャード(1862–1928)とチェリー(1871-1940)のカートン兄弟は、紛れもなく現代の野生動物写真の先駆者であった。営巣中のウタツグミの卵の写真は世界で初めて、1892年に撮影されたもので、1895に出版された『英国の野鳥の巣:どのようにして、どこで、いつ、その種類を特定するか』にその成果が結実した。野鳥は警戒心が強いので現在でもブラインドテントを使うが、牛の毛皮で牛のぬいぐるみを作り、その中に潜んで撮るといった工夫を凝らした。また木の上の巣を撮るため、三脚を繋ぎ合わせて高くし、リチャードの背に乗って撮影するチェリーの写真が残っている。そればかりではない、高木に登り、細い枝に梯子を固定してマヒワの巣を撮ったり、海鳥の巣を撮るため、ロープにぶら下がって断崖絶壁を降りるといった危険な作業もしている。それはあくまで野生動物の自然な姿を撮るためだった。剥製を使ってフェイク写真を作るということをしなかったチェリーの「絶対的な誠実さ」を、アフリカで出会ったセオドア・ルーズベルト大統領が絶賛したという。その最たるショットが、1909年にケニアで夜間、フラッシュを使って撮影されたライオンだった。1910年に撮影されたマサイ族のライオン狩りの写真は、おそらく最初にして唯一のもので、特筆に値する。狩猟という名の忌まわしい「スポーツ」が現在でも行われているが、彼は銃の代わりにカメラを持ったが、それゆえに多くの危険に晒されたことは言うまでもない。野生動物を記録するため世界を旅した彼は「私の仕事は愛の労働」という言葉を残している。昨年ジョン・ベヴィス著『カートン兄弟:ネイチャー写真の事始め』が出版されたが、アマゾンで入手できる。

Amazon  "The Keartons: Inventing Nature Photography" by John Bevis

2017年10月14日

安倍首相は改憲が必要なくなったと思っていない

Illustration by ©281_Anti nuke

昨日「安倍首相『改憲必要なくなった』=昨年、田原氏に明かす」という記事が目に飛び込んできた。時事通信電子版の記事だが、都内の日本外国特派員協会で記者会見した田原総一朗氏が、集団的自衛権の行使を可能にするための憲法改正の必要性について、安倍晋三首相が昨年「全くなくなった」と語っていたことを明らかにしたという。米国が従来求めていた集団的自衛権の行使について、安全保障関連法の成立で可能となったことで「米側からの要請がなくなったためだ」と説明したそうである。やはり安全保障関連法は米国の要請によるものだったのである。日本は米国の属国とよく言われるが、まさにそれを露呈した発言で呆れる。ところでタイトルだけを読むと、安倍首相が「改憲必要なくなった」と発言したと誤解しそうだが、そうではなく「日本の憲法学者の7割近くが『自衛隊は憲法違反だ』と言っている。だから憲法に自衛隊の存在を明記したい」とも話したという。所謂「9条加憲」で、日本国憲法9条の1項、2項はそのままにして、新たに3項といったものを追加し、その追加の部分で自衛隊の合憲化を書き込むというものである。しかし憲法9条2項は「戦力は、これを保持しない」と規定している。自衛隊は明らかに戦力であり、7割近くの憲法学者の見解を覆して、どのように書き換えるのだろうか。日本の歴代内閣は集団的自衛権を「保有しているが、憲法9条との関係で行使できない」との解釈を示していたが、安倍内閣は2014年7月の閣議決定で、その解釈を変更した。安全保障関連法の制定は、憲法違反であるという批判を無視して成立、集団的自衛権の行使を可能にしたわけである。そしてひたすら「北の脅威」を煽り、しかも災害時における自衛隊の活躍ぶりのみを強調している。憲法9条を守るには、まず護憲派議員を増やすことだから、今回の衆院選は大事なのである。しかし投票予測記事を読むと改憲勢力が増え、状況はますます悪化すると言わざるを得ない。しかし憲法改正の手続きは、総議員の3分の2以上の賛成で国会が改正案を示し、最終的には国民が投票で決める。国民投票という瀬戸際作戦に備え、一般市民が護憲の必要性を地道に展開することが必要である。

2017年10月12日

木島櫻谷:近代動物画の冒険

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日 時:2017年10月28日(土)~12月3日(日)10:00~17:00(月曜休館)
料 金:一般800円・高大学生600円・中学生350円(小学生以下無料)※20名以上は団体割引20%
会 場:泉屋博古館(京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町)075-771-6411

木島櫻谷(このしま・おうこく)近代の京都を代表する日本画家の一人として知られる。明治10年(1877)三条室町の商家に生まれ、円山四条派の流れをくむ今尾景年に入門し画技を学ぶ。20代から頭角を現し、明治後半から大正期にかけて文展・帝展の花形として活躍し、京都画壇の巨人・竹内栖鳳と並び立つ人気を博した。近年、櫻谷の画業が改めて注目され、今年は生誕140年のメモリアルイヤーにあたる。

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2017年10月11日

京都パンフェスティバル in 上賀茂神社 2017


日 時:2017年10月28日(土)〜29日(日)10:00~15:00
会 場:上賀茂神社(京都市北区上賀茂本山)075-781-0011
照 会:京都パンフェスティバル実行委員会事務局 075-241-6172

WWW公式ホームページ: 出店企業・店舗紹介・2016年の模様など

2017年10月10日

京都1区希望の党候補者の不可解

上善寺(京都市上京区今出川通千本西入る)

第48回衆議院議員総選挙(衆院選2017)が告示された。私は京都1区の有権者だが、3人が立候補した。自民党・伊吹文明氏、共産党・穀田恵二氏は毎度お馴染みの顔ぶれだが、希望の党から立馬した嶋村聖子氏は初めて耳にする名である。朝日新聞の候補者紹介欄には、フリーアナウンサー、米国ハワイ大卒となっている。ひとつだけ分かっているのは、希望の党の小池百合子氏が主宰する政治塾「希望の塾」に参加し、国政挑戦を打診されたという点だけである。ポスターには小池氏とのツーショットがレイアウトされていて「しまむらさんが京都の希望…」というコメントが添付されている。もう少し詳しい履歴が知りたくなり、オフィシャルブログを覗いてみたところ、米国州立大学卒業とあるが、具体的な大学名は書いてない。さらにオフィシャルサイトなるものにアクセスしたところ、京都在住としながら、趣味が旅行で、京都・大阪めぐりといった矛盾も見られる。どうやら京都は観光で訪れた程度で、選挙区には縁もゆかりもないらしいのである。フェイスブックページから問い合わせて欲しいということなので、探したが見つからなかった(*)。ツイッターやインスタグラムへのリンク記述があるが、いずれも「非公開」で、しかも投稿した形跡がない。というわけでこれ以上追跡しても無駄と判断した。駆け込みドタバタ立馬で準備不足なのかもしれないが、ネットは今や有権者にとって、候補者の横顔を知る貴重かつ有用な手段である。また候補者にとっても強力な広報手段で、ホームページやブログ制作、あるいは SNS 投稿に力を注いでいる。にも関わらず、履歴や政治スタンスはどうなのかという点に対してやや不満が残る。注目の党ゆえに嶋村聖子氏をピックアップしたが、選挙妨害をするつもりでは毛頭ない。

(*) フェイスブックページ「しまむら聖子」を探すとができました。せめてオフィシャルサイト、あるいはオフィシャルブログからリンクされていれば、簡単に見つけることができたと思います。ざっと一読したところ、街宣の写真が主で、ページ情報を見ても何が目的で国政参加したか不明です。(10月12日)

2017年10月9日

赤と黒

SEKONIC FLASHMATE  L-308S

SEKONIC STUDIO DELUXE L-398M
フランスの作家スタンダールの長編小説『赤と黒』ではなく、露出計の話である。単体露出計の需要については不案内だが、なんとなく絶滅危惧種じゃないかと思い始め、同じ製品を一台買い足した。セコニックの L-308S で、右の黒がそれである。左の赤は1921年に同社の創業60周年を記念して売り出されたもので、赤、青、緑、それぞれ60台ずつ国内出荷された。数が少なかったのであっという間に売り切れ、購入し損ねてしまった。ところが米国のB&Hに在庫があったので、逆輸入して何とか入手できた代物である。ところで調べ直したところ、同社は私の心配をよそに、現在でもかなりの数のラインアップを備えている。最上位機 L-858D はそれなりに測光精度が高いと想像されるのだが、筐体が大きく嵩張るし、希望小売価格が \75,000(税別)とかなり高価である。その点 L-308S は \35,000(実勢価格 \22,000)と手ごろな値段だし、単三電池1本で動くのが良い。アルカリ電池でもかなり長期に渡って使えることを体験済みだし、何処でも入手できる点は捨て難い。なお L-308S の機能に動画対応機能を追加した後継機に L-308DC があるが、必要ない機能なのでパスした。手元にあるミノルタのオートメーターIIIはまだ動くので、売却する予定。超ロングセラー L-398M は余りにも美しいので、手放すのはやめておこうと思っている。

2017年10月5日

モノクロ写真に情報の欠落を感じないのは何故だろうか

壁画(京都市中京区河原町通三条下る)
Rolleiflex 3.5F Xenotar 75mm T-max400

アルタミラの洞窟壁画、あるいは高松塚古墳の壁画など、絵画の世界は太古からカラーだ。ふと思うことだが写真や映画、テレビはモノクロから始まっている。もし写真術の発明がカラーだったら、絵画における水墨画のように、果たしてモノクロの写真を人は作っただろうか。気まぐれで色彩情報を廃棄した写真を作ることがあったかもしれない。しかし、今、写真史に残ってるような傑作が生まれたか疑問である。手掛ける人は減ったかもしれないが、モノクロ写真には捨てがたい魅力がある。ところで、カラーの水彩画を描く場合と、水墨画を描く場合、その方法論はまった違う。それでは、写真家はカラーとモノクロをどれだけ意識して使い分けているのだろうか。これは極めて興味ある課題だ。これはカラー向きの被写体だ、といった言い方をときどき耳にする。これは一瞬ナルホドと思うが、冷静に考えてみると、これはちょっとオカシイかもしれない。どんな色をしているかという情報を必要とする被写体にのみの場合であろうけど、不思議なことに、その必要を感じた経験を思い出せない。色彩にはさまざまな情報が含まれている。色彩から人間はさまざまなことを感知する。森羅万象、人間が感じ得るあらゆるものが色彩に込められている可能性がある。時にそれは危険信号となって、生命破たんを回避してくれる。あるいは性的なパッションを含め、人間の生命エネルギーの横溢を感じさせてくれる。食への欲求を促進し、生命維持のエンジンの役割を果たしてくれる。

紅葉(京都市右京区梅ケ畑高雄町)
Rolleiflex 2.8FX Planar 80mm T-max400

いわば色彩は、人間の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、つまり五感すべてに関与していると言っても過言ではない。にも関わらず、多くの場合、モノクロ写真に大きな情報の欠落を感じないのは何故だろうか。新聞に掲載された小さな顔写真。人はそれを見て、それが誰かを識別する。何故なのだろうか。色彩がない二次元の映像から、人間はそのパターンやその他の情報を汲み取る。単なる影でさえ、人間はたくましく想像を張り巡らすのである。この先は大脳生理学者が解説してくれるだろうけど、おそらく、人間はその経験によって欠落情報を補填する能力を持っていると私は想像している。私が好きな写真家、石内都さんは著書『モノクローム』(筑摩書房)の中でこんな記述をしている。「色彩は自然の摂理であり、疑う余地のない現実の世界。そのすべての色彩をモノクロームのフィルムは、光と影の明暗だけに置きかえる。(途中略)いかなる色彩もモノクロームにあっては、黒と白に近づく為だけに用意されている」云々。これである。現実を写し取るのが写真の役割のひとつだが、眼前にあるモノを写し変える作為が写真にはある、と彼女は言う。そうなのである。現実を大脳が想起させつつ、さらにモノトーン化した画像から人間は、さらなるもうひとつの世界を嗅ぎ取るのである。

2017年10月3日

時代祭2017年日程

巴御前に扮した宮川町の芸妓(京都御所2016年10月22日)

10月15日13:30 時代祭宣状授与祭
行列の主な参役に選ばれた約500名の平安講社員が平安神宮のご神前に行列の無事執行を祈願し宮司より宣状が一人一人に授与される
15:00 時代祭奉祝踊り足固め
平安神宮境内で揃いの衣装の女性300名による民踊列が披露される
10月21日10:00 時代祭前日祭併献花祭
時代祭の無事執行を祈り献花などが平安神宮で行われる
10月22日7:00 時代祭(雨天順延)
総長・奉行が参列し平安講社を代表して総長が祭文を奏上する
8:00 神幸祭
2基のご鳳輦(ほうれん)に桓武天皇・孝明天皇のご神霊をうつす
9:00 神幸列進発
神幸列が平安神宮を進発し10:00頃に京都御所の行在所に到着する
10:30 行在所祭
崇敬者と市民代表が参列し神饌講社より神饌が献じられ白川女の献花奉仕が行われる
12:00 行列進発
時代行列が京都御所の建礼門前を出発し平安神宮に向かい13時頃には御池寺町に14時頃には平安神宮前で奉祝踊りが披露される
16:00 大極殿祭並還幸祭
全行列が到着したあと御鳳輦を大極殿へ奉安し延暦文官参朝列の三位が代表で祭文を奏上し続いて御霊代をご鳳輦より本殿に還して祭典を終了
10月23日10:00 時代祭後日祭
祭典の無事終了を奉告し祭具を片付け格納される
京都観光NAVI  行列の解説や巡行コースなど時代祭詳報(京都市観光協会)

2017年10月1日

片腕の写真家ヨゼフ・スデックの偉業

Prichod Noci ©Josef Sudek ca.1948–64

暗箱を背にした晩年のスデック
20世紀を代表する写真家の巨匠はという問いに対し、すぐにアンリ・カルティエ=ブレッソンやアンセル・アダムズなどを頭に浮かべるけど、ヨゼフ・スデック(1896–1976)の名を挙げる人は少ないかもしれない。スデックは「プラハの詩人」と呼ばれているが、こよなく愛したその都市景観と近郊の田園風景の魅力ある写真を残した。ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)のパリとは大きく異なり、光を捉えた幻想的な作品である。アジェは日陰になった建物の諧調が潰れるのを嫌い、曇天の日に撮影することを好んだ。それに対しスデックは光が織りなすトーンを大事にしたからである。ボヘミアのコリーンに生まれた彼は、父親の生業だった製本の見習工になった。1915年にハンガリー軍に徴集され、イタリア戦線に送られたが、そこで負傷、傷の悪化により右腕を失ってしまった。入院中、医師からカメラを貸与された彼は患者仲間を撮影することに没頭する。退院後、プラハに戻った彼はグラフィックアート学校で写真を本格的に学んだのである。ピクトリアリズムに傾倒したが、すぐにストレート写真に転向、1924年にチェコ写真協会を設立して前衛表現に関心を寄せるようになった。スデックの写真表現を決定的にしたのは、1962年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団に同行、イタリアを旅した時の出来事だった。コンサートから抜け出した彼は、夜露に濡れた街の光景に強く打たれる。そして「もうどこにも行かない」と決心、プラハの都市景観撮影に集中、1933年に最初の個展開催にこぎつけた。1940年代に入り、ナチにより撮影活動が制限、戦後も社会主義体制のもとで極度に戸外での撮影制限されされたため、窓からの眺めを撮影したが、これは結果的にはシリーズ「アトリエの窓から」という傑作を残した。晩年はパノラマカメラも導入したが、大判の木製暗箱が主な撮影道具であった。健常者でも操作が厄介であるが、片腕というハンディを乗り越えた点に敬服するが、何よりも作品自体の素晴らしさに畏敬の念を抱かざるを得ない。紛れもなく20世紀を代表する写真家の巨匠の一人である。