2018年1月11日

大相撲が抱える排外主義の深い闇

二代目歌川国輝「大日本大相撲勇力関取鏡(部分)」慶応3年(1867)

日刊スポーツ電子版によると、横綱白鵬が1月9日、明治神宮で奉納土俵入りを披露したという。日本相撲協会の公式サイトは「相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた」とその起源を説明している。その一方で「人間の闘争本能の発露である力くらべや取っ組み合いから発生した伝統あるスポーツである」とも。宗教儀式、つまり神事であり、スポーツだという。神社で土俵入りを奉納するのは、明らかに神事であり、宗教行事である。白鵬が「横綱の品格に欠けると批判された」という記事を時々目にするが、相撲は神聖な神事だという見地に立った苦言なのだろう。しかし白鵬はあくまで格闘技であり、勝つためにはいろいろな手を打つ、と考えているのではと想像する。異教徒であるにも関わらず、神事に従うのは、そうしないと日本相撲協会から追放されてしまうかだろう。いわゆる「国技」の厳密な定義はないが、大相撲を国技と呼ぶ人がいるようだ。両国の相撲興行施設が国技館と名付けられているだけという、極めて薄弱な理由によるものに過ぎない。日本の国技という主張を突き詰めると、力士はみな日本生まれの、日本国籍の者たちでなければならないということになり兼ねない。ところで大相撲には「花道」「幕の内」「千秋楽」といった、歌舞伎と共通する言葉がいくつかある。だからというわけじゃないだろうけど、大相撲を芝居と揶揄する人がいるようだ。芝居という言葉は八百長を暗示している。土俵際の砂かぶりで何度か撮影したことがあるが、仕切りを繰り返すたびに、次第に力士の肌が紅潮、気合が入ってゆくのが伝わってくる。力士がぶつかるときの音はテレビ観戦では分からないが、間近に聴くと実に激しいものだ。まさにガチンコ、真剣勝負で、八百長が忍び込む余地はないと当時は思ったものである。それはともかく、単なる格闘技以上の伝統的要素を含む点が大相撲の魅力を支えているし、世界無形文化遺産に登録されていないのが不思議なくらいだ。しかしながら、普通のスポーツ選手なら看過される行為に対し、国技あるいは神事という言葉を持ち出し、執拗に批判するのは如何なものかとも思う。神事とスポーツの複合が、現代の大相撲の運営の難しさを象徴しているからだ。貴ノ岩に対する暴行事件の複雑さの根底に、異教徒である外国人力士を受け入れた大相撲が抱える深い闇、排外主義の陰が潜んでいる。

0 件のコメント: